『一年間の意味とは。』

ライズだ。こんにちは。

第一志望大学の合格が決まって一週間が経とうとしているが、俄然堕落生活が続いている。

今まで気張ったツケというわけでもなかろうが、日がな一日瞑想しては思い出したかのように原稿をやる、どうしようもないほど気の抜けた生活を送っているのは間違いない。


そこでようやく分かったことがある。

俺はこの一年、浪人が決まってからの一年だが、その期間だけなぜか日記の日付が毎月ぶんある。2006年の創設以来最多の更新ペースであった。

浪人生であったはずだ。真面目に学習もやったはずだ。

であるのにこの一年に限って日記は頻繁に更新され続けた。

これは不思議に思えるようでその実そうでもない。


浪人生活というものは、精神を限界まで磨り減らしこそしたものの、実に色々な事を俺に与えてくれた。

それは家族に対して心の底から恩を感じることであったり、目先の漫画や勉強といった自分の日常ぶんしか見てなかった世界の視点を動かすことであったり、これから何十年と続けていく自分自身の生涯を活用する方向であったり、まさしく枚挙にいとまがないと断言できる。

そのある種の新鮮味や様々な旨味が、極限に挑む俺の生活に絡み、あるいは溶け合って、俺の日常の思考形成を大きく転換させた。

その副産物がこの日記であったのだ。日頃手に入れたこと、気付いたこと、そういった事に敏感であったからこそこの日記は高い頻度で更新され続けた。


この一週間。

受験の荷を降ろし本当に何もかもが終わった後でありながら、まったくこの日記が更新されなかった。時間は腐るほどあったはずなのに。2008年より前の自分に戻ってしまったかのように。

少しショックを受けた。浪人生活で手に入れたはずの様々なアンテナが、たった数日で閉じられている。この結果日記が更新できなくなっている。

これでは何のための一年だったのかと、恥じ入らざるをえない。一年間の修身を数日で忘れ去る行為は、堕落とさえ呼ばない。


昨年に民主党やマスコミに扇動され、かつ国民自らがたいして何も考えずに投票し舵を漕いだという事実をほったらかしにして、いまさら他人事のように民主党へ批判の句を並べ始めた日本人を見ながら、

俺はずっと心に抱いていた言葉がある。


『人間は河川と同じ。放っておくと常に、どこまでも低きに流れている』


まさか自分自身も体現していようとは。

至らぬばかりの頭でっかちを恥じるばかりである。

では如何すべきか。


川に流される人生など微塵の旨味もなかろう。

低きに流れるばかりですぐ数十年経って死んでいくなど、心から無念でならない。

一年間で得てきた様々の感覚器をもう一度叩き直し、糧にして、川どころか滝すらさかのぼる気焔で死ぬまで精進をせねばならない。


それが、のち数十年で終わる俺の人生の中の“一年間”に意味を持たせうる手立てであろうと思う。