『3つの証明としてみんとてするなり。』
――――あぁ、今思い返してもさ。
きっと、紙媒体に頼らなかったのが悪いんだと思う。
いつもよりすっぱ抜いて書けるぜ、初期プロットなんぞ知らんわーと驕っていたのが悪いんだと思う。
それでこういうことになってしまったわけで、傷心の俺はわざわざ山梨にまで旅立った。
原稿を誤操作で消去してしまってはや数日。
ゴミ箱あさりソフトで発掘された4000万ファイルの中に、お目当てのものが存在していなかったと知った際の落胆は、もはや筆にも尽くせぬ。
石和温泉駅の三角屋根を見上げながら、あぁ、いっそ全世界が次の瞬間にひっくり返ったらどれほどマシだろうかと考えた。
それでもだだっ広い駐車場に原稿が転がっているわけもなく、いっちょ温泉にでも入るべえと思っていたのだが俺の想像力は限界を迎えた。
嘘を付いた。だいぶ嘘を付いた。山梨なんて行ったこともない。石和温泉がどういう場所なのかも知らない。
ただ、原稿が消えたことまでも嘘だったらよかったのに。
ライズだ。こんにちは。
前回の魂からの慟哭は、自らへの戒めの為に置いておく。
「ライズだ。こんにちは。」さえ言わない日記はたぶんアレが初めてだった。
さあ、積もる話も数多い。日記に手を伸ばすことも久方ぶりなのである。
そういうわけで、溜め込んであったふざけた話の数々をお届けさせていただきたい。
題して、“3つの証明”である。
それでは始める。
1:『聖夜の老紳士』の証明。
「サンタマリア」とは、言うまでもなく、イエス・キリストの母である聖母マリア、「セイント・マリア」のことである。
ただし発音する際、イの発音が舌と息の間に隠れて「セーント・マリア」に聞こえる。
平たく日本語で表記すると「セント・マリア」になるわけだ。
ところで、サンタクロースという人物が居る。
これは聖ニコラウス、「セイント・ニコラウス」が訛ったかなんかして「サンタ・クロース」になったような気がする。
つまり、日頃我々が「サンタさん」と呼称している人物は、実は「セントさん」だったわけだ。
ここで思い出さねばならないことがある。
我々は、「せんと」の名を冠した者を一人知っている……。
つまり、子供たちがよく尋ねたがるあの老人の正体は……、言うまでもあるまい。
このように、アルファベットより派生した言語の歴史を掘り下げることによって得られた、確固たるゆるぎない証拠をもって、もはや「聖夜の老紳士の正体が“彼”であること」は疑いの余地がなく、ゆえに間違いなくこの案件は以上の通り証明された。
どっちかっていうとトナカイ側に見えるのも、カモフラージュの一環だよ。
2:『宇宙収縮論』の証明。
『宇宙膨張論』のうさんくささについてはいつか述べたので、今度は俺がより高度で優れた理論を発表したい。
さて、例えば人間は生きていれば、新たな人間と出会うことがある。
でも、そいつと話していると、意外や意外。自分の友達とその新しい人の友達が共通することがある。
「え!? お前もあいつのこと知ってんの?」
「お前も? マジ!? すげえなー。世界は狭いもんだな。」
となることを人間誰しも死ぬまで一度は経験するものである。
これは世間的に、「世界は狭い」という常套句と共に起こる現象である。
しかし、だ。そいつらの人生はそれからも続く。
彼等はさらに何百という人間に逢い何万という人間に影響を及ぼす。
すなわち、ネズミ講と同じギミックで因果の玉突き衝突が起こりつづける。
よってだ。世界は狭くなり続けている、という仮定が容易に成り立つ。
それはやがて人間と人間を越え、無人探査機の開発者や宇宙飛行士にも広がって行く。
結果としてこの現象は地球に留まることはなく、各種宇宙空間へ分散する。
「宇宙は膨張してるのではなく、むしろ収縮していた」ことがお分かりいただけただろうか。
つまりこの理論の語るところによれば、「宇宙膨張説」がその根幹から覆され、等加速度的に我々の宇宙が縮小していることは自明である。
なぜなら、この「宇宙収縮説」は、日頃から60億人のうちのいくらかが世界のどこかで実演し、証明しているからである。
3:『太古の諺における時空断絶』の証明。
「二度あることは三度ある」とは、日本において太古の昔から語り継がれてきた訓戒である。
ともあれ、ただいたずらに語られて現代に残ったわけではあるまい。
これがもしガセ情報だったなら、まさか何百年も語り継がれてきたことはありえないだろう。
その安直かつ的確な論理、そして多くの人間の経験則に裏打ちされているからこそ、この「二度あることは三度ある」という法則は、今なお語り継がれ続けてここまで生きながらえているのだ。
ところが、「仏の顔も三度まで」や「三度目の正直」といった、同じ時空においてのみに発生が限定される同じ種類かつ全く別の法則が存在する事が、永らく我々日本人を苦しめ続けるにまで至ってしまった。
例えば何らかの悪い事案が続けて発生した際、純然たる法則「二度あることは三度ある」が誘発即時的に適応されようとする。
だが、ここで同時に「三度目の正直」が発動することとなる。
よって「次もダメだろう」と「次こそはうまくいく」とが同瞬間に共存し、『コペンハーゲン解釈』における“波動関数の収縮”がここに生じるはずであった。
しかし、よく考えなければならないのは、実際にはそうなってはならないという事実があることだ。
前述したとおり、「二度あることは三度ある」は何百年も語り継がれてきた完成理論であり、これに悖る物理的現象は一切有り得ないはずなので「二度あることは三度ある」は優先されようとする。
だがここに穴がある。
「三度目の正直」もまた、つらく何百年もの間下積みを経験し、同じだけの間人々から語り継がれてきた完全無欠な完成理論であったからだ。
つまり、ここには『コペンハーゲン解釈』も『エヴェレット解釈』も通用しない。
これがシュレディンガーの猫などと決定的に違う点とは、「どちらも有り得る」のではなく「どちらも同時に存在しないといけなかった」のである。
つまり、「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」は、『やってみれば結果がどっちか分かるよ』どころではなく、『やってみたらぜったい両方同時に成立する』ものでなければおかしいのだ。
「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」が、何百年にも渡って証明され続けてきた歴然たる完全理論であるので、この両者は共に成り立たなければならない。
では実際にこういった案件が発生した場合どうなるかを言わねばならない。
世界は、この背反する二つの完全理論を同時に充足させるため、もっとも妥当な処理を実行する。
時間が、その事案の発生直前で完全に停止するのである。
その瞬間、ありとあらゆる法則が止まり、よって「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」の法則のしがらみから、世界は同時に解放される。
しかしこの要素が残り続けている以上、世界が再び再起動することはない。
よってここに時空が断絶することは明らかである。
太古の諺が同時に適用される瞬間、この時空列が切れてただのゴミと化す事は、以上によって証明された。
今日のところはこれぐらいで勘弁してやるか。
ここの3つの証明、あなたには何を言っているかわからんかもしれないが、全て真実である。
間違っても疑ったりしないように。お兄さんとの約束な。
なんか久しぶりに本来のアホテンションで日記書けてよかったわ。
もうちょっと使い方あっただろうとは思うけど。
それじゃ、今日はこのへんで。またね。