『The collective unconscious.』

ライズだ。今日はちょっと違ったテンションでお届けしたいと思う。

思えば、俺の生まれた1990年からこの19年間。
今現在ではそれと、それより後に生まれ育った人間を「ゆとり」と揶揄する人間が居て、事実それはその通りだと俺も思っている。
本当に空気が読めず頭も悪い人間がネットにいてびっくりすることも何度もあるからだ。

俺がネットを始めたその当初、まだこの電子情報網はある種のアンダーグラウンドに過ぎず、だからこそさまざまな脅威も横行していた。しかしそれゆえに、意図的でない低レベルの書き込みを見る事は(“タチの悪い”書き込みなら散々あったが)あまり無かった。
いや、自分もまた年齢的に、その“あまり”の生産者であったことは否定できないのだが。

それが10年経った今となっては、小学校においても、俺のような所謂ハミダシ者だけでは無く、殆ど全てのクラスメイトがネットユーザーとして画面に向かっている。だからこそ、程度の低い書き込みもまた日常的に見られるようになったのだろう。

その転換期が最も著しかったのは、正に俺の年代ではなかっただろうか。
2001年段階で小学校高学年であった人間。それが、もっともインターネット波及の影響を最初期に受けた、言うなれば「ゆとり」と形容される世代の雛形だったのではなかろうか、と。
しかしそれは、インターネットに存在した雰囲気、路地裏のごとき薄暗さを垢抜けさせる役割をも果たしたように感じられる。結果として、俺もこうして自分のサイトを持つにまでなったわけだし。


何を話したいのかと言うと、さしあたって目的なんてない。

ただ、自分達が生きた世代について、少し経った今だから分析してみる気になっただけだ。
当時は何の不思議も持たなかったが、ある程度知識を蓄えた今だからこそ見えてくる事はある。

もしかしたらどの世代の人間であっても等しく『我々の世代が一番激動の時代に生きた』と思っているものかも知れない。

俺もまた、今の自分の世代に一番世の中が変わったと思い込んでいる人間の一人だ。
ここ最近日記を書くために『マスコミ』の性質を詳しく学習するようになったのが、その大きな動機になった。


思い返せば、実におかしな時期だった。
『たまごっち』といった携帯型育成ゲームがまるで彗星のようにやって来て流行り、マスコミはそれを大々的に煽った。
その影響でこのドットモンスターの需要増加は加熱し、ついには1万円を超える値段が付くこともあった。
無論それは高校生に払える値段ではない。面白い話だが、“売春”が世に浸透し始めたのがまさにこの時期ドンピシャなのは単なる偶然だろうか?

そして広がる売春行為を、しかし“売春”では言葉の響きが悪いとして、マスコミは新たに『援助交際』という単語を創り出した。そのうち、『援助交際』を経験しない女子高生の方が珍しくなっていった。

ポケットモンスターの発売とアニメ放映が開始されるこの時期、それをたまごっちの時と同じ方法で扇動し、その大ヒットによって一層自分達の発言が強固な立場となった事を確認した一部のマスメディアは、さらなる『ヒットのプロデュース』を芸能界、音楽界、映画界へと行っていった。
ポケットビスケッツなどがその良い例であると言えば分かりやすいだろうか。他にもとんねるずがふざけて作った音楽ユニットが解散しただけで「望みが無くなった」と女子高生が自殺する事件さえ起きた。

マスコミの影響力はこの90年代に、無視できないほどの肥大化を見せたのだ。
しかしそれを『マスコミの扇動だ』と訴える当時の専門家の声は、あまりにも小さかった。今でさえようやく認知され始めたかどうかといったところでしかない。

俺がやがて人並みの常識を得はじめた2000年代に入って、インターネットはスラム街のような場所から、まるで大都会のようになった。
それは本当に都会が出来上がる工程と同じだった。荒れ果てた土地に多くの人々が入植し、便利で近未来的な大きい街へと生まれ変わったのだ。

ただしそれによって、今度はマスコミの影響力が徐々に脅かされることとなった。


この変遷と共に成長し、そしてこれからようやく日本という社会に介入して行かんとしている“俺たちの世代”。
それがこの国を生かすか殺すか、それを自分達の手でどうとでも決められるという事実にすら無自覚な集団に、同じ世代の自分からでさえ溜息が漏れる。