『生きている小説とは何か考えてみた。』

ライズだ。ちょいーと俺に似合わん話をば。

まぁ物書きを志してて思ったこと、とか。


“言語ってのは、突き詰めて言えば単なる感覚記号に過ぎない。”

これは一年ほど前だったか、現役の頃にある講師から聞いた言葉で、以来小説を書く際にこの言葉が頭にちらつく事がある。


穿った意見かも知れないけど、俺はその通りだと思う。


人は感情を覚える時(それが何であっても)、目で見た現象を一旦言葉に置き換えて把握しようとする。

それはある種究極の抽象化機能と言ってもいい。


例えば外出中に車に轢かれそうになったとしよう。

人間には脊髄反射が備わっているので、とりあえずびっくりして車を避けようとする。

それには成功した、ということにしたい。

しかしその事を脳が視覚的に捉えてから戦慄が頭を支配するまでの工程は、ふつう脊髄反射では起きえない。

そりゃ感情は大脳で組まれてるんだから、脊髄から大脳通さないといけないのは当然の話なわけで。


じゃあ脊髄反射でなく普通に戦慄するまでに何が起こっているのかっていうと、「うわっ、今俺轢かれそうになった?」という状況把握の組み立てにまず言語を使い、『それが一般的にどういうことなのか』を言語で考え、「……怖かった」と脳が言語にして把握する。


言語なくして人類に繁栄がなかったという話をよく聞くのもその為だ。

複雑な思考を構築し、時には類推し、あるいは共有する。それら全てのギアにしてコアとは、取りも直さず“言語による状況の抽象”に他ならない。(この場合なら事故未遂という事実からの、『怖かった』という概念への抽象化のこと)

そしてそれは、俺たちの日常生活にあまりにも溢れすぎているほどに、無意識のうちに使われているという。


しかし、この場合の抽象化は、その特性ゆえに必ずしも正しく自分の体験や感情を留め続ける事はないんだ。

『怖い』思いなんて日常でいくらでも経験する。そのうちのどれが『轢かれそうになった恐怖』と同じかなんて、頭で理解する事は不可能なんだ。

「あ、同じ思いをした事がある」と思った時点でそれは前回と違う思いになっちまってるし。


何が言いたいかというと、それほどまでに日常で当たり前に誰もが実行し、それこそ奇妙な言い方になるが『湯水のように、重宝される』存在である言葉の概念化機能を、書き手である作者は読者から間借りすることで小説は成り立っているんじゃないか、ということ。



物を考えるには言語という記号が要る。

逆説的に言えば、言語とは常に物を考えさせる記号であるとは言えないか。


そして感情を与える記号でもあり、感覚の追体験を与える記号であるとも考えられないか。


それが、俺の出会った講師の残した『言語とは単なる感覚記号に過ぎない』の真意だったのかも知れない。


さらに言えばだよ、人間の感情が言語によって支配されているなら。

その言語によって構成された『物語』には、あるいは人を支配させるだけの力を秘めることだって可能なはずじゃないか。


俺はその言語の無限性に惹かれた。心を奪われたと言ってもいい。

だから俺は小説を書きたい。物語を書きたい。

とはいえ、思いついた話を形にしたいという人間の本質的な創作意識が無いというわけではもちろんない。

それだって俺の大事な原動力であり、支えられる大切な感情だ。


だが、どれほどストーリーが優れていても、それを表現する方法に乏しければ何の意味も無い。


どれほど大量の水が備蓄されていても、蛇口が小さければ何の利点ももたらされない。

どれほど綺麗な風景が目の前にあったとしても、それをモノクロ写真で撮っては誰も良さを理解してくれない。


しばしば俺は自分が『ストーリー至上主義者』であると豪語してきたし、今でもそうかも知れない。

ストーリーが面白くなければ書き方が上手くてもそんなもんは駄作も駄作だ。だって“面白くない”んだぜ、という考え方である。


しかし。

ストーリーが面白いのは最低条件、物書きならば当たり前に過ぎない事なのではないか。

そこから如何にして“感覚記号”を操るか。そこに妙技があり、あるいは文豪と凡人の差を隔てる壁があるのではないかと思う。


よく、『書くのが上手な人の文体を取り入れればうまく見える』と思っている人間がいる。

過去そうだった者も合わせて俺の知り合いに少なくとも4人居る。



だが、ね。


本来なら別の物語で取り入れられていた筈だった、本来の物語の雰囲気のみを最大限に抽出するための感覚記号をだよ、

それを他のモノに無理矢理突っ込んで迎合させて、まるでハウルの城のようにごちゃごちゃと雑多の突き刺さったその物体をだよ、


自信を持って勧めるのかい、さぁ召し上がれと。


それは物書きのやることじゃない。デッドコピーなど今日びコンピューターにも出来るではないか。


確かに模倣から入るのは悪いこととは思わない。だがそれだけでは駄目だ。

じゃあアレンジが必要なのか? そうでもない。

自己流を見つける事が、確立する事が必要か? そうでもない。

むしろ自己流の文体など存在しなくてもいい。


なんでか。

作品ごとに作品の雰囲気が違うのに、同じ文体で同じ構図を量産させ続けてはただのプレーヤーとどこが違う。


大切なのは、いかに読者に感覚や感情を与えるか。その時々において最も適した感覚の記号による妙技、芸術、それを生み出せるか。そこに尽きるんじゃないか。


そんなことを、ふっとデッドコピーに過ぎなかった頃の、上手い人の文体にこだわる四人の知り合いの最初の一人に過ぎなかった頃の、昔の自分の原稿を見ていて思った。