『ちょちょいとした駄文を書かんとしてすなり。』

『――ひよいと後ろを向いたあの馬は
かつてまだ誰も見た事のないものを見た
次いで彼はユウカリの木陰で
また牧草を食ひ続けた


馬がその時見たものは
人間でも樹木でもなかった
それはまた牝馬でもなかった
と言ってまた、木の葉を動かしてゐた
風の形見でもなかった


それは彼よりも二万世紀も以前
丁度この時刻に、他の或る馬が
急に後を向いた時
見たそのものだった


それは地球が、腕もとれ、脚もとれ、頭がとれてしまった
彫刻の遺骸となり果てる時まで経っても
人間も 馬も 魚も 鳥も 虫も 誰も
二度とふたたび見ることの出来ないものだった』


――――ジュール・シュペルヴィエル『動作』より



ライズだ。こんにちは。

アレだね、ちょっと前に言われた事なんだけど、この日記はテンションがふざけてる時と真面目な時でギャップがありすぎて、変に読みづらいらしい。

なんか申し訳ない。そういう人間なのだ。

ちなみに今回は真面目な話ね。


さて冒頭の節。

なんだか奇妙で幻想的、それでいて見た瞬間に少し不気味になる世界観だけど、どこか自分の倫理観に通ずるものがあって安易に頷いてしまう。


物事は気付かないうちに、気付かないほどに離れた場所で影響を受ける。

まるでそれはバタフライ効果のように。

それによって今現在の辻褄が合っていると。


そんな倫理観を持っているんだよな。個人的に。


全く何も無かった、存在しなかった座標地点に地球が誕生したその瞬間から、

まるで水たまりに石を投げ込んだかのようにひとつの波紋が広がり、それが広がるうちに十にも百にもなって帰ってきて、それが千に万になって、垓となって、恒河沙となって。


やがて無量大数に近い因果関係の玉突きが起こって、起こり尽くして、

飽和してもまだ足りずに蠢きあって、だからこそ一度起こった事も構わず起きまくって、

それが奇跡のように今現在のこの社会を、国を、世界を構築している。


どんだけすげえんだよ、それって。



もっとも冒頭のそれは、物事の現象がループするということを主軸に書いているものではないと思うけどさ。


ただ、なんというかな。これは俺個人の解釈なんだけど、

これは昔俺の書いた『タイムカプセル』という短編の概念と、『その場にある光景は二度と見る事が出来ない』という概念が、

矛盾しながら共存した結果の文章だったとは言えないかな。


何億年も何十世紀も後になって世界がループして、馬は“それ”を、別の馬が見ていたその光景を、再び見たと。

しかしその光景は、今一瞬だけしか存在していなかった。

もし何十世紀後に再び同じものが起こったとしても、それは“今の光景”ではないわけだ。


たとえまったく同じ、寸分の狂いもないその光景が万が一再生されたとしても。



だから『二万世紀も以前』の『見たそのものだった』としても、『二度とふたたび見ることの出来ないもの』だったというか。

そういう解釈をしたかったというか。



ちょっと何言ってるか分からないな。

まぁ息抜きのために書き始めたから目的は達成されたよ。


いいか。ちょっと頭疲れてるから、ゆっくり休む。まだ短いけど。


明日はちゃんとした更新しよう。