『死なない命について。』
『eipen autois | [o] | o | ihsous ei tufloi hte ouk an eicete amartian nun de legete oti blepomen h amartia umwn menei』
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
※最初のやつは文字化けじゃないよ。あなたのPCの動作環境はきっと正常です。
ライズだ。こんにちは。
最近受験勉強の傍らに聖書がある奇妙な生活をやってます。
まぁ第一志望が敷地内に教会あるような大学だし、読むとモチベーション上がるかな程度で始めたら中々に示唆に富んでんだなこれが。
元々俺こういうのあんま読まないんだよ。自分がまだ無宗教なのもあるんだけど、
こういう思想とか倫理を学ぶ本ってのは、自分固有の思想を持ってない人が読めばいいのであって、
すっかり自分の考えを持って自分に立脚した倫理観を持ってる人間が読んでも反発しか生まれないわけよ。
もう既に書いてある絵に、上から全然違う絵は書けないからな。
キャンバスがまだ真っ白い人が読むぶんには良いと思うんだけど。
結局今の自分の絵を塗りつぶせるほどに感心するものじゃないと自分でも取り入れようとしないもんだし。
でも聖書は例外だったな。2000年間原典が存在する本は伊達じゃねえ。
1000年存在してもどうしようもない古典のレイプ物語とはえらい違いだ。
さて冒頭のは、イエスが盲目の人を奇跡で治したら、それをやったのは何者だとかでモメ始めて一段落着いたときの発言。
椿で泥を作って目に塗り、シロアムの池で洗えと言ったら本当に治っちまったんだけど、皆が驚くなかでユダヤ人は信じなかったんだな。
で、そいつは安息日にそんなことしたから神の使いじゃないだの、本当は男は元から目が見えていたんじゃないかだの、「俺達の仕えるモーセは有名だけど、俺達はイエスなんて名前聞いたことないね」だの、生まれながらにして罪人のくせにだの色々言うわけだよ。
当時の考えとしては、生まれながらにいわゆる先天的な難病を持っている人は、その先祖か本人が罪を犯していた結果そう生まれてきた、とかいうけったいな常識みたいなのがあったんだな。
だから生まれつき盲目だったその人も、周りからは罪人とされていたわけだ。ゆえに生まれながらに罪人と言われたと。
ちなみにここでユダヤ人が信じなかったという部分が、イエスの最期を暗に示しているような。
それはこの『ヨハネによる福音書』の第19章で語られるんだけど、アーメン、またのお話ということで。
さて、のっけに聖句持ってきといていざやるのはくだらん話かいと思うかも知れんが、なんだか最近体力の減少が著しい気がする。
駅に間に合わなくて数百メートル走っただけで息が切れる。
そりゃ全力疾走だからしょうがないけど、昔はもっと体力があった気がするんだ。足ももっと速かった気がする。
身体の劣化というのかね。しばらく動かしてないとやはりこうなるのかと若干絶望を覚える。
そこで今日は、俺のちょっと歪んだ価値観の話をしたいなと思う。
まず俺はぶっちゃけ老化しない薬が欲しい。不老と呼ばれる存在になりたい。今現在のこの体の状態を永劫保ち続けたい。
ついで雑菌が入っても死なない程度の生命力も欲しい。
ぶっちゃけ俺は俺の命が永遠であればなと思う。地球が滅びるまで続けたいとすら思う。
よく「不老不死は幸せじゃない」だとか、「死ぬから人間はいいんだ」とか、そういうことが小説やらで語られたりする。
でも俺はそういう意見を総括してもやっぱり永遠の命が欲しい。
俺だけで良い。俺だけで良いから生き続けたい。
おそろしいほどの自己中ってわけじゃなくて、ちゃんとした理由があるよ。
きっとそれはすごい寂しいんだろうな。
物は物である以上、変わらないわけにはいかない。
街だって100年あればまったく変わりきるだろう。大切な人も100年経ってればきっと死んでるだろう。
でも俺は取り残されたい。さながら時代に付随するゴミ、金魚に付く糞のようにずっと。
そうあって、『かつてこういう街と社会と、愛した人々が居た』という明確な“生き証人”であり続けたい。
“人間と言うのは、自分を覚えている全ての人間が死にきって初めてこの世から死んだことになる”
そんな話を聞いたことないですか。
たとえ死んじまったとしても、その故人を覚えている人が居る限りはまだもってその人は生きているんだ。
覚えている人達の中で、思い出の中で確かに生きている。
そんなの詭弁かもしれない。あほらしいと馬鹿にされるかもしれない。
あるいは俺らしくないかも知れない。普段の俺の性格なら
『死んだもんは何言ったって生きてないわけじゃん。じゃあ死んでるんじゃん。』とかなんとか言いそうな気がする。
でも、俺はそうありたい。
劣化せずに生きて、何百年も生き続けて、何もかもを覚え続けて、自分と出会った全ての人間をいつまでもこの世界の片隅に留め続けたい。
とても辛いと思う。途中で絶対諦めかけると思う。
でも、自分の不老不死が『“今まで出会って今なお自分の中に生き続けている人々”との総和』で成り立っていると思い込める。
多分何百年もやり遂げる事が出来ると思う。
…………まぁ、俺がどれだけそれを叫んだ所で、結局俺は数十年後に死ぬ人間なんだろうけどな。
あぁ、ちなみに昨日の日記で話題にした『Coteren's Origin』の犯人も、これと同じ思想の持ち主にした。
彼の場合はそれが、賢さゆえに拡大解釈されて、『今この世界をこのままの状態で永遠に停止させる』段階にまで飛んでるんだけどね。
流石にそこまで行くとそれはないわ、と思えるから。
前提条件として永遠の命があるのは自分だけでいいんだ。辛い思いをしてまでそういうことするのは自分だけでいい。
今子供の人間が永遠に身体的に成長できないのもかわいそうだし。
まぁ俺にしてはらしくない話だった、かな? そんな感じで今日は終わろう。それでは。