『解散総選挙のもたらす、あるべき形について。』

ライズだ。こんにちは。

今日は真面目な話をするので、ネタ目的の方は読んでも怒らないように。


まず、少しばかり外縁の雑談からしよう。


俺という人間は、ゲームが大好きだ。携帯電話だって使う。インターネットも利用する。コンピューターも触れられる。

いわば、21世紀における日本のテクノロジーに完璧なまでに順応した未成年の子供であると言っていい。


だから、大人達が「ゲームは馬鹿になる」「パソコンが情報を混乱させる」など言ってしまおうものなら、「それは違う」と脊髄反射で豪語せざるをえない幼少時代を送ってきた。

俺はずっと思っていた。「今の大人は、自分達が子供の時にこれだけ便利なものが無かったから嫉妬しているんだ」と。

だから“認めたくない”んだろう、“今の俺達の羨ましい環境にひがんでる”んだろう、なんて思って今まで生きてきたんだ。


でも、最近これらの意見がかなり変わってきた。これが次から述べる本題に繋がる話でして。


ところで、次の解散総選挙が8月30日に投開票を迎えることとなった。

俺は今まで散々言ってきたが麻生首相支持派の人間である。むしろ否定するに足る正当な理由を討論の場を設けて申し上げていただきたいほどだ。

法に触れたことをやってきたわけでもない(むしろ法整備に精を出しているのでは)。

ホテルのバーに言っただけで何故か怒られる(国民の気持ちと言いますが、本当に日本国民はバーにさえ行けないほど貧困なのでしょうか)。

漢字の読み間違い程度で揚げ足取られる(国政の行使に関係あります?)。


マスコミのネガティブキャンペーンに踊らされ、第二の『椿事件』と言うほどの民主党バブルが“作り上げられている”ことに、国民は違和感さえ覚えていない。


…………恐らく、ですが。

東京都の結果を見る限り、次の選挙で麻生首相は首相ではなくなるでしょう。

そうして、『外国人地方参政権』の名を冠した、難民問題と掛け合わせれば内政干渉上等の法案と、『最低賃金1000円マニュフェスト』というジンバブエ上等の法案を引っ提げてやってきた鳩山は、何の苦もなく過半数を得るでしょう。


何が問題なのか。

難民を日本が受け入れ、その上で『外国人地方参政権』が始まってしまえば、日本の主権が自分の手から離れる。

ただの算数の話です。

選挙権(≒総人口)が難民6割、日本国民4割の状態に陥れば、日本人は迫害されてもおかしくない。51%を握れない時点でこの国は日本の手から零れます。当たり前のように。

日本は遠からず、民主党指導下で滅茶苦茶になるんじゃねーですか。


ですが。

今の日本には、それが必要なのかもしれません。



――――元来より日本の民族気質として、『自分に火の粉が降りかかるまで、問題を対岸の火としか思い込めない』ということがあります。


誰かが何とかしてくれる。

自分が動かなくても、誰かが。

だから自分は何もしなくてもいい。


…………誰かってなんでしょうか。


そうやって誰もが責任逃れを起こすのを、俺は間近で見たことがあります。

高校時代にそうやって汚れ役を買う勇気もなかった馬鹿な愚民連中は、自分の部室を取り上げられて失うのです。

規模は大きくなるけど、自分の領地は、自分の国は同じ手順で失われるのでしょう。

誰も問題に対して動かずに、ただ今ある自分の立場に甘んじて、イエスマンとして飼い慣らされ続ける。

それが『自分ひとりに結果の降り注ぐ結末でない』ことまでも失念し、問題を次の世代に押し付けたまま卒業したどうしようもない無能を、後輩達は背負って汚れ役と成り果てるわけです。

誰かがなんとかしてくれましたか。果たして。違いましたよ。当たり前ですけど。



日本人は、“自分の喉元に刃を突き刺されてからでないと後悔さえできない”生き物だ。


原子爆弾を落とされるまで本土決戦を諦めなかったように。

バブル経済が限界を迎えるまで土地を回し続けたように。

後悔できない、目先でしか物を考えられない民族性。


テレビドラマだけが自分の理想の人生と思い込んでいるメスザル。

ゲームの世界だけが自分の理想の人生と思い込んでいるオスブタ。

携帯電話が無いとこの世が終わると信じ込んでいる売女。

なけなしの自分の個性をひけらかさないと死ぬと信じ込んでいる塵男。


それは今この現代において、『日本の日常生活』というマスコミによる“催眠”にのみ依存し、自分がどれほどに創作的で実動性にあふれるひとつの個体であるかを忘れ去っている錆びた歯車そのものである。


かつてGHQのマッカーサーはこう言った。

『日本はまるで子供のようだ。自由の権利の大事さも分からず、しかしそれを行使し、それを当たり前に思うわりには義務を払うことを知らない、中途半端に知識だけ持った子供だ』、と。


その通りだと思う。

日本人が本当に“学びうる”方法があるのだとすれば、方法はふたつと存在しないだろう。


それは取りも直さず、『痛みをもって、自分の骨身に教育すること』に他ならない。子供はそうやって物を覚えていきますよね。


一度日本が滅茶苦茶になるのを黙ってみていることだ。


で、終わってから存分に後悔しろ。

あぁ、こんなことになるならああしておけばよかった。そう思ってからでは遅いはずだけど、いっそ手遅れのなかでそれを味わうことだ。


で、自分がいかに馬鹿だったかを学び取れ。そしてそれを教訓として心に刻め。



滅茶苦茶になった後の日本でも、その心を一億三千万人が取り戻したなら、それは安い代償だ。


かつて戦後の自国を急速に発展させて、世界第二位の経済大国にまで持っていくことのできた、民族のうちに眠る底力が真の日本の姿を取り戻させるだろう。


それは戦後復興と等しいほどに、つらく大変な作業となるだろう。

だが、遠からぬうちに我々は自分でそれをやらなければならない。



その時。

貴方は逃げますか。

それとも一緒に汗を流してくれますか。


人間は等しく創作的で実動性があることを、どうかその時になって忘れないでほしい。そう思う。