『核兵器廃絶について。』
64年前の今日、核分裂反応を起こしたウラニウムが死都を作り出し、世界中にその威を轟かせた。
マンハッタン計画の成果を裏付けることとなった原子爆弾は、ものの数秒の間に多くの命を融解させて、まさしく陽炎のように消滅していた。
常々勘違いされがちであるが、俺は反戦論者である。
過激な言動と右翼びいきした態度を取る等と言われるが、俺はただのナショナリストで、下品で厚顔無恥な右翼ではない。
無論、たくさんの命を救ってくれた伊丹の駐屯所の門前に居座りこんで、あろうことか「自衛隊は不要だ」と恩を仇で返すばかりの気持ちが悪い左翼の連中を俺は軽蔑してはいるが。
俺は高校時代の二年も含めれば、都合三年間に渡って世界の歴史を勉強してきた。そして長短編小説を書くにあたっても、ある程度の下調べをこなさねばならない以上、戦争というものについて調べることはままある。
そしてその度に思う。ポエニ戦争の時からペロポネソス戦争の時から、もっと言えばカデシュの戦いの時から、人類は愚行ばかり繰り返している。
全ての戦争は愚の骨頂である。これは俺自身のプライドに掛けて断じねばならないことだ。
よもや、よもやだ。刀を揮い弓を引いて、他人の命を踏み台にしておのれの陣取り合戦や信長の野望ごっこに興ずる歴史的戦国時代ですら充分呆れた行動であるのに、砲撃を撒き散らし炸薬を破裂させる金持ちの道楽を、どの口が『ジャスティス』とほざけるのだろうか。
それを唱えた国の大統領は代わった。
大統領の任期は8年までが限度だとのジョージ・ワシントンの意向に、今も律儀に従っているため、代わらざるを得なかった部分もあるが。
この禁忌を唯一侵したのは、リトルボーイを落としたルーズベルトだけだった。
ともかく、その国の大統領は代わった。まさに今核兵器の廃絶を掲げ始めたらしい。
世界は少しづつその方向性を変えつつあるようだ。
………だが、俺の話の本題はここから始まる。
これは、安直に『核廃絶』のみを大声で叫んで回る人類全体への警鐘とも言うべき案件である。
一応俺個人が勝手に抱いている考えであるので、これを読んだ後どう判断するかはあくまでおまかせしたいが。
核兵器の禍々しさは冒頭に述べたとおりだ。
それはもはや単なる兵器ではない。運用法を間違えただけで、チェルノブイリも比較にならぬこの世の果てを形成する地獄そのものだ。
我々がこれを断絶せねばならんとする向きは正しい。議論の余地なくそれは間違った判断ではないと言い切れる。
でも、我々は核兵器に夢中になるばかり、大事なことを忘れてはいないだろうか。
例えば、広島に投下され、産業奨励館を今の形へ変えたリトルボーイは、TNT換算を行った場合15キロトン程度とされている。
もっと馴染みのある単位にすると、5.5×10の13乗ジュール。えげつない熱量である。
…………しかし、しかしだ。ここまで読んだ後によく考えてみてほしい。
『TNT、即ちトリニトロトルエンを15キロトン持ってくれば、まったく同じことが出来る』のである。
ではどうしてTNTを規制しないのか。束ねれば核兵器に匹敵するんだ。これを規制しない手があるか。
さて、じゃあこれをコンポジション爆薬の量に換算しようか?
それともダイナマイト? あるいはセムテックス?
もしくは成形炸薬弾何発分に相当するのか?
拳銃の弾何発で同じ威力が出る?
………核兵器を廃絶する。いいことだと皮肉抜きに思う。
でも、核兵器だけをひたすらに廃絶したところで、それで世界の生の紛争地帯で何が変わるって言うのだ。
ボリビアの紛争地帯の人間は核兵器廃絶を喜べるのか? 明日通常兵器に殺されるかもしれない恐怖の中で。
パキスタンはどうだ? 核が根絶されたら武器街ダラは一斉閉店するか?
イラクは? 米軍に向かって爆薬括りつけて死にに行く青年は、核兵器が無かったら何が変わったのか?
そうじゃない。そうじゃないだろ。核兵器が無くなったらハッピーなんじゃないだろ。
もっと先に、より簡素であっけなく人を殺せる兵器が死ぬほどあるのに、それは派手じゃないから、成果が見えにくいから、商売にならないから、その他諸々のくだらない理由で、『核兵器を廃絶する』ことにだけ目を向けて誤魔化して、今まさに紛争地帯で現役の人殺しをしている銃はどうでもいいと捨て置くのか。
大量破壊兵器廃絶のみを手放しで喜ぶ人達に問う。どこまでが規制に当てはまるのだろうかと。
核兵器か?
どれも頑張れば核兵器にだって匹敵する。『時間』なんて関係ない。『費用対効果』も『手間』も関係なんてない。
我々が唯一絶対的に慮るべきは命である。銃を撃てば人は死ぬ。簡単に無造作に、呆気なく紙のように死ぬ。
拳銃が8万2807人の負傷を出さない。本当に?
ライフルが11万8661人の命を奪わない。本当に?
今、まさに、世界中の紛争地帯で毎日、広島以上の人間が死んでるんだ。それを誰も気付かないのはどういうことなんだ。
核兵器よりも簡単で、言い方は悪いが“手軽に”被害が出る通常兵器、それよりもっとひどい特殊兵器が未だ世界中にある。
化学兵器だってそうだ。ジュネーヴ条約だかなんだか知らんが、勝てば官軍負ければ死刑の状況で、おのれの命可愛さを度外視してそんな全文すら知らぬ国際条約を守る奴なんて聞いた事が無い。
人間がそれのできる生物であれば歴史はもう少しマシになったはずだ。
産業奨励館は原爆ドームへならなかったはずだ。
こう言うと遺族の方に失礼だと覚悟しておくが、敢えて俺の弱い脳で例に挙げる。
兵器はカードゲームと似たようなもんだ。ルールで禁止されるほど使えば強いのだから、影で用いられていてもおかしくはないじゃないか。
どうして否定できる? 「僕は使ってません」って公式発表を鵜呑みにするか。でも兵器の数はそうすると減ってないことになる。
それは誰が根絶する? 使用される時を未だ待っている化学兵器は、武器は、炸薬は、弾薬は、どうやって全廃しましたと声高に言うことが出来る?
束ねれば追いつける。束ねれば追い越せる。
そんな兵器は見てみぬフリをして、派手でやりがいのある兵器から削減しようという魂胆は、人類の進歩のように見えて、じつは何千年も前の殺し合いから、カデシュの戦いからまったく進化していない。
まったくもって頭の悪いバカの集まりであると、唯一の被爆国の国民であるからこそ苦言を呈さねばならない。
核は廃絶の向きにむかう。それはいい。そこから先、俺たち人間―――この馬鹿馬鹿しくも愚かな闘争の歴史を5000年前から繰り返してきた哀れな種は、次にどこへ向かうのか。
それを今から考えておいた方がいい、そう世界各国のお偉方に俺は物申したい。