『科学というものについて。』

ライズだ。こんにちは。

科学について話すより前に、哲学についてを軽く話したい。


『哲学』というものが発達した経緯など、興味を抱いた事がない俺には知りようも無いんだが、憶測するにきっと「自分たちが不気味だった」んだろうと思う。


今、俺は自分がいかなる生き物であるか、どういう社会的位置に居て何をすればどうなるのか、肉体のどの部分はどういう働きをして、個である以上に群である人間が、一様にしてどういう統計的思考、行動をなぞるかはある程度知識としては学んでいる。

それを当たり前に享受できているのは「かくありき」と習ったからに他ならない。先人達の残したあらゆるデータを入手し、吸収することで、我々は当たり前のようにそれらを把握し、また日々活用もしているわけだ。


それでひとつの背景が浮上してくる事になる。

何ヶ月か以前に教わった事だが、人間は歴史にて“ある2種類の価値観”を中心に添えて活動してきたという話である。


そういうわけで今日はじっくり、世間一般で言うところの『宗教的価値観』と対比させた上で『科学的価値観』に異を唱えようと思う。

ちゃんと後で冒頭の話にも連結する予定なので、しばしお付き合いを願えればと思う。



これは現代文の授業でぶちあたった話の受け売りだが、18世紀以前、すなわち産業革命より前の話、とりわけ西洋は『宗教的価値観』に基づいて動いていたという。


その時は、天が地を中心に回るというプトレマイオスの説はたしかに正しかった。少なくともその時代の人にとってはそうであった。

地球がフラットな形状であるということを盛んに叫ばれていた時代もあった。それもまた正解であった。

その時、宗教の教義に基づく価値観は、すべからく真実であった。


「何を言っている、それは間違っていたじゃないか」と言われるかもしれない。

それは知っている。1961年4月12日、ヴォストークロケットからガガーリンは地球が丸い事を確認している。


しかし、18世紀より以前はそうではなかったのだ。世界は平らであり、地球は宇宙の中心であったのだ。

ついでに言うと、じゃあ18世紀より以降の“科学”を手にした人間が全て理論的に解明することができたかというと、それもまた実はまったくそんなことはないのである。



「いやいや、地球が平らとかアホじゃねえの? 丸いっつーの」

俺たちは、昔の人をそうやって笑う資格なんて、どこにもないんですよ。


「じゃあ地球が平らであるとしよう。なら端っこの方にある海水は、世界の淵から落ち続けていることになるじゃあないか」


そうですね。


「じゃあその水はどこへ行くんだ?」


分かりません。


「ほらやっぱり見ろ、説明できないじゃないか! 論理的に説明できないんだろうが!」



科学者なら誰でもそう言う。

だけど、ちょっとその前に考えて欲しい。


科学は本当に論理的であるのか、今の会話と比べ合わせて考えてみたい。


さて、今現在の“科学”の粋を凝らして、一番有力とされている世界観の説明に『宇宙膨張説』というのがある。

宇宙はビッグバンの瞬間から膨張をしており、それは光ですら追いつけない速度で急速に広がり続けている、というのがその大筋だ。


ならば、問おう。


『その広がり続けている宇宙の外側は、何がどうなっているんだ』

あるいは、『ビッグバンが発生するより前に宇宙はどうであったのか』


分かりません、で終わりですよ。

論理的に説明できない。知らないものは知らないと言うしかない。

それは、世界の端から零れる海水とどっか違うんでしょうか。


ついでにもうひとつ。

地球が球体に閉じている事を知るためには、どれだけの視力が必要なのか。かつて問われた言葉である。

どれぐらい視力が必要なのか。

1.5なのか? 2.0なのか?

8.0なのか? 9.0なのか?

南アフリカの方には8.0とかいらっしゃるらしい。

でも、どれだけ視力がよくても、人間の身長はせいぜいでかくて2メートル。

サインコサインタンジェント的に考えて、2メートルから見渡せる水平線の距離は40キロメートルがせいぜいなのだそうだ。どんなに視力がよかったのだとしても。

つまり、肉眼で地球が丸かったと一目で確かめる手段は存在しなかった。


かつて平らである世界は、象が支えており、それをさらに亀が支えていた。

元はインド神話の記述ですね。

やはりそこには、『宗教的価値観』がある。


俺たちはね、過去の知識を笑うことはできませんよ。


科学が発達した? 世界が解明されつつある?

科学はね、本当は世界のことなんかまっっったく分かってなんかない。

それらしい仮初めの仮説を訳知り顔で持ち出して「分かった気になっている」だけだ。


18世紀以降に隆起し、『宗教的価値観』を押し退けて世界を支配した『科学的価値観』は、本当に前者に比べて優れていたのか。


19世紀のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で「神は死んだ」と言った。

それは、宗教的な価値観が科学に食い殺された事を一語で説明するにふさわしいフレーズだった。


神は死んだ。

それは同時に、歯止めの利かない合理主義へ人を押し流す原動力にすらなってしまった。


かつて、ある先生が俺たち生徒へ問うた。

「墓を荒らした人間はどうなると思う?」


「宗教的価値観が根付いている間は、『神様に咎められる』『天国に行けない』と、人々の良心に力を貸すのが神の仕事だった」


「その神が死んだら、どうなる」


「誰も呪いも天国も信じない。現世が全てで、神は合理的じゃない」


「呪いも天国も存在しないならと、人間は悪意を封じ込めるタガを外した」



墓荒らしをして金品を盗み出しても、亡霊がそれを呪ったりしませんよ。科学的じゃないですもん。

でも、だからって、やられた遺族はどう思うでしょうか。


そういう、倫理的なところを補佐することも、宗教的価値観の役割だった。

人間の自己満足のために取って代わった“科学”は、そんなことをお構いなしに今の世界を作り上げた。

いや、まさしく作り上げてしまった。


それが正解なのか。わざわざ食塩と水だったものをNaClとH2Oにして、ふんふんと分かったつもりになるのが正しいのか。

原子説は、「正しいらしい」と言った程度のものでしかないのに。



俺たちはね、笑えません。

過去の宗教的な価値観に基づいたあれらの知識を。


それを忘れて、ひたすら科学が真理であり全てを解明するべきと盲信してやまない方向へ向かっている人類には、薄ら寒い何かを感じる。

まるでそれは科学教の信者だ。


だが、何かとつけて原因をこじつけたくなるのは、今に始まった事でもないのかもしれない、というところで冒頭の話に戻る。


全てをまったく知らなかった、宗教的価値観すら根付いてなかった時代と言うのは存在する。

ソクラテスから始まってプラトンアリストテレス、水に起源を求めたタレス、数に求めたピタゴラス


人間は、常に「何かがどうである」と規定して、分かった風になりたがる生き物なのかもしれない。

たぶん俺もそうなのだろう。いや、俺の場合は斜に構えているだけなのかもしれない。

まぁどちらにせよ、確固たる自我を持った瞬間から、ものが分からないという状況を人間は畏れるものなのである。


まず人間というものの存在意義を彼らは知らない。『存在意義なんてそんなに言うほど人間にはない』ことをまず知らない彼らはそれを模索し始める。

自分たちの存在すら不明なのだ。これは最大の恐怖に違いない。

だから哲学は大成したのだと思う。何千年後の科学と同じ行動原理の元に成り立ったのが、哲学という分野だったのだろう。


ただ、科学は哲学すら蹂躙してそこにある。

科学は既に「人間がそれほど大した意味も無い動物」であると規定してしまっているので、彼らの必死の探求も全部無駄になったというわけだ。


同じ動機で先に隆起したその他のものをも完全に蹴散らして、今世界に君臨している『科学』という分野。

懐疑の目を向ける者も居なくては、ますますそれらは調子に乗るに違いない。


まずもって余談になるが、俺は何度か自作の小説にて科学者を登場させたことがある。


………まぁ、全員ロクな目に合わなかった。

合わせなかったのが正しいか。

お気に入りだった最後の一人も、石碑の前で自殺させて、科学者勢は全滅させた。


元々科学が好きではなかったのだ。

べつに難解で学校の点数が取れないからではない。

『科学は素晴らしい』と、なんの証明にもなりゃしない科学を振り回して“この世界を分かった気になっている”科学者という人種が嫌いだった。


彼らは『科学が万能である』と半ば真顔で信仰している。

それがプトレマイオスでなくて何だというのだ、とそう思う次第である。


さて、今週6日に行われる『第二回全統記述模試』へ向けての調整に移るため今日は寝る。

おやすみー。