『“消失”の劇場版化について。』

ライズだ。こんにちは。


涼宮ハルヒの消失』の劇場版化が決定したらしい。

喜ぶべきことなのかも知れないが……。


これはあくまで一個人からの意見だが、2009年版のハルヒはしっくりこなかった。


勘違いしないでほしいのは、エンドレスエイトの私怨で言っているわけではない。


例えば、原作における溜息に相当するミクルの冒険のメイキングストーリーは、エンドレスエイトと並んでこの新シリーズの核とも言える存在である。

しかしながら、これを見たハルヒイズムの信徒たちは、なんの異物感もなかったのだろうか。


俺がハルヒに惚れ込んだ3年前、当時一大センセーショナルを巻き起こした『涼宮ハルヒの憂鬱』は、たしかにそれに値するだけのアニメ作品であると断じてもいっこうに恥じぬ代物であった。

それは魅力の溢れるシナリオやキャラクター達より以前に、アップテンポでメリハリの利いた場面構成、ジェットコースターのようなシーン展開に占められる部分があまりにも大きい。

そもそも、それを抜きにすれば、映像化の必要はどだい存在しないからだ。

文字で伝えられないことを、適切に飽きを来させないテンポで、手を変え品を変えて繰り出す映像技術こそが、アニメ作品化に一番求められることのはずじゃないか。


「声優が居るからアニメ化にはそれだけで意味がある」と主張なさる方は、おそらく今の京都アニメーションと同じ考え方である。


憂鬱の時の映像にギミックを盛り込んだ調子。まるでセリフを暗記できそうなほどに流れる展開。

特に射手座の日など、放映後一週間はどこのサイトを覗いても同一の話題で持ちきりであった。


誰が先により多くの小ネタを発見できるか、「うーわそれもそうだったのか」とわくわくしながらも何度も確認させるまでの徹底的な遊び心。



それを、あなたは今回自分自身に見つけられただろうか?



絵がついて、声優が居ればアニメなんだろうか。


『憂鬱』の時にあった映像の技法(例えばハルヒが踊り場まで引っ張っていく際の画面の回転や、効率的な場面展開など)は『溜息』にはない。

何秒か静止状態がいちいち挟まっているのはもはや演出全般を放棄したと見なしてよいのだろうか。


『憂鬱』の時には一応付いていた、「途中だけども一応ある一話一話のオチ」というか、「丁寧な終わり方」は『溜息』にはない。

唐突に始まり唐突に終わる。


あまりにも平らに平らに、ただただ「再生しているだけ」「ストーリーに沿って絵が動いて声が出ているだけ」にしか見えなかった。



そんな俺も、アンチハルヒだと責められるのだろうか。


何度も聖地巡礼に足を運び、北高校内にまで協力の元足を踏み入れるほどに熱狂的であった俺が。


だってさ。おかしいよ。こんなのってねえよ。


それとも、みんなにはあの、ただひたすら撮影風景だけが淡々と流れて、「だって忠実にお話やってるでしょ? 問題ないじゃん。」とでも言いたげなものが面白く感じられたのだろうか?



俺が間違ってるのかなぁ。


あんなままで劇場版とか言われても、なんだかなぁ。