『核兵器の脅威と廃絶について。その2』
ライズだ。こんにちは。
とりあえず湿っぽいタイトルからある程度推察されるように、湿っぽい話題である。
普段のようなパッパラパーなテンションのネタではない、でも出来るだけ読んで欲しいような、そういう話だ。
2ヶ月ほど前の8月6日に、俺はこの日記で“あること”を書いた。
たしかにこの日はハム太郎の誕生日でもあるが、
それより確実に重要なのは、広島に悲劇と厄災が、死の灰と共に訪れた日であるということだ。
少し肩をほぐすために余談をするが、俺はGB&GBA版のハム太郎のゲームを全作品全クリアしている。
オススメは3作目である。GBAソフトで、デビハムとかいうのが出てきたやつ。普通に、ハム太郎関係なしにゲームとして秀逸なので是非触れて欲しい。
4作目はミニゲームの豊富さが面白かったが、何となく3と比べて謎解きが物足りなく、最後のほうになると仲間のハム達がうっとうしいぐらい全員でぞろぞろ引っ付いてきたりする。
2はあまり印象にない。3の先駆け的なシステムであったことは覚えているんだが。1は冒険するゲームですらなかったように記憶している。何にしても3作目は非常に面白かった。お試しあれ。
まずい。核兵器について論じる雰囲気でなくなりつつある。
話を本題へ戻す。
俺のその時の主張を掻い摘むと、『核兵器だけを制限してスッキリされては困る。世界中で今も命を奪っている通常兵器こそ、真っ先に地上から根絶すべきではないか』であった。
しかし先日、この主張がどれだけ浅はかなものだったのか、核兵器というものの本当の恐怖を見誤っていたとしか言いようのない事実を突きつけられたので、その事について話さねばならないと決意した。
かつてオンラインで勝手な主張を垂れ流したなら、それをより深い知識で修正するのも発行した当人の義務であると感じたからだ。
では、始めたいと思う。
最初によく聞く話から入るが、今現在地球に存在する核兵器が全て起爆した場合、地球そのものを50個も潰せると言われる事がある。
その事自体、確かに途方もない話には違いない。次の瞬間、地球が完全に塵に帰って、月や火星を吹き飛ばし、永久にグランドクロスの機会を失わせる可能性さえかなり高いのである。
そうなれば、死ぬことを実感できず、小説家にもなれず、息子や娘の姿も見れず、ペルソナ3ポータブルもプレイできずに自分を含めた全世界が死ぬのである。断じて耐えられない。
しかし、地球を死の星に変えるには、無論それだけの核兵器など必要ない。
ではどれだけあれば地球が滅びてしまうのだろうか?
たった一発。
それだけである。
たった一度、核分裂反応がけたたましい暴走を引き起こした、それだけで地球の大多数の文明がほぼ同時に消滅することも絵空事でないのだ。
「放射能汚染のことだろ?」と言われるかも知れない。
それもあるにはあるだろうが、残念ながら答えとしては大ハズレである。
ともあれ、物理的にでもない。
確かに爆心地からかなりの距離までは物理的に消失する。
だが、全地球の生命体と文明がほとんど滅びるというのはそういった話ではない。
唐突な話だが、砂場に石を叩きつける光景を想像して欲しい。
その時、石のぶつかった周囲の砂はどうなった?
………恐らく、放射状に飛び散って周囲に落着したはずである。
これは隕石が降ってきた時にクレーターが出来るのと同じであることは、べつだん語気を荒げなくとも問題ないに違いない。
分かっていただけただろうか。
核兵器の暴発でも同じ現象が起きる。
日本人に生まれ育っているなら、きのこ雲がどうとかって方が固定観念としてあるかも知れないが、現代はTNT15キロトンとか言ってるレベルじゃない、メガトン級の水爆が開発されている世界である。
太陽が爆発するエネルギーが地表に現れたと思えば、無茶苦茶なクレーターが当たり前のように発生する事は容易に受け止められるはずだ。
では、飛散した砂はどこへ向かうのか想像して欲しい。
あなたの想像よりも圧倒的に大きく、大津波とすら形容できないものがそこに出現する。
土砂による壁そのものが天まで形成された姿を、あなたは想像できていただろうか。
飛散した砂はどこへ向かうのか。
答えは地上などではない。
絶対的な力によって舞い上がったそれは、成層圏にまで飛び出して浮遊し続けるのである。
カール・セーガンという学者がいる。
彼とその共作者が1983年に発表したTTAPS理論で、この状況についての考察が克明に成されている。
宇宙まで舞い上がったそれは、しかし地球の重力から完全に逃れたわけでもなく、地球を覆いつくしたまま停滞し、徐々に徐々に地表へ近づいて行く。
この間、地球は太陽光から完全に遮断される。
かの有名な、『核の冬』と呼ばれる状態の到来だ。
そうして、“死の灰”を大量に孕んだカーテンは、途方もない年月を掛けて地球へと降り注ぐ。
太陽の消えた地球で、どうやって人間は暮らせるだろうか。
摂氏切るどころではない低温をどう乗りきれるのか。食物はどう調達できるだろうか。エネルギーはどこで賄えるのか。
核シェルターなんて関係ないですよ。温度と飯が無くなればみんな死ぬんです。
しかも、そのカーテンが地表に降りればハッピーエンドなわけでは決してない。
その時は今度こそ“死の灰”が、全生命へ最後の追い討ちを掛けるだろう。
これだけ大変な兵器を、あまつさえ無知のままに「最優先するべきことか」と言い放った昔の自分を殺してやりたい。
これが、この破壊が、この日記を書き終えた直後に発生しないという根拠があるのか。
あるいは今モニターの前で読んでくれている皆さんが、この文章を読みきる前に地球が崩壊し始めない確証なんてものもない。
『―――太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。
すなわち、我々は太陽が昇るかどうか知っているわけではない。』
ウィトゲンシュタインの言葉だ。まさにその通りとは思わないだろうか?
この問題は、皆さんにも真剣に考えてみてほしい。
これは断じて「杞憂」の故事で済ませられる話ではない。次の瞬間に空が落ちてくる可能性は十二分にも存在する。
そして、それを成しえる兵器が一発どころか何万発も地球上には存在する事を、我々は決して忘却してはならない。
ことに唯一の被爆国であるはずの我々は、目を背けてはならない。
俺にしては左翼的な発言じゃないかと言われるかも知れんが、何度も言うように俺は右翼でも左翼でもなくナショナリストである。
確かに大震災の時の恩も忘れ、諸外国からの防衛も忘れて、伊丹や姫路に座り込んで『自衛隊不要』を叫ぶバカどもを俺は断じて許さないし、そういう人間は他国に亡命でもしてくれたほうが楽というのは正直なところだ。
だが、日本国の現状を憂い国粋を主義としているからこそ、尚更核兵器については絶対に破棄せねばならない。
核兵器の破裂は、人類全体にとって対岸の火ではあり得ない。60億人全員が等しく抱える問題であるからだ。
つい数年前まで存命であったフランスの作家モーリス・ブランショは、核兵器の完成について「人類は自殺の能力を獲得した」と評した。
人類は、自殺の能力を獲得した。
その言葉の重みを噛み締めて、核兵器の禍々しさを俺たちは再認識せねばならないと、固く信じる。