『どう考えてもファンです本当にありがとうございました。』

しかし俺が思うに、男女が己すら見失って愛し合う行為を、たったセックスという4文字のカタカナで片付けるのは、あっさりしすぎてやいないか。

下手を打てば体育よりよっぽど体力を消耗する行為であるのに、なぜこんなお手軽な響きがするのか。不思議である。


おかしい。

なんでこうも語感があっさりしているのか。

なんでこうも清々しい響きなのか、淡々とした響きなのか。


本能の中に総身を投じ、汗さえも互いに舐めあい、淫蜜を絡め、理性を溶かす煩悩を、なんでこうもスポーツ然としたさっぱり感のする単語で片付けようとするのか。


言葉の理不尽をここにこそ感じざるを得ない。

こんな単語を使い続けるようでは青少年が誤解してしまう。スポーツみたいに清涼としたものだと勘違いしてしまう。大変である。

「磯野ー野球やろうぜー」が「磯野ーセックスしようぜー」になったら誰がどう考えても教育上宜しくない。


アッー!


これはよくない。何より淫靡な感じが全然無い。セックス。どこか事務的な語感すらあるではないか。

これ以上青少年を惑わすような単語を使用するわけにはいかない。

そこでセックスという単語のどこが悪いのか検証してみた。


まず第一に、外来語であるから卑猥さがないのだと思う。

例えば『CTBT』という単語で片付けるより、『包括的核実験禁止条約』と書いた方が雰囲気が出る。


これにならって、『セックス』という単語を『性行為』と置き換えてみた。

全然エロさは得られなかった。


次に、“より説明的な段階に落とす”ことにしてみた。

例えば『冷戦』を『世界が資本主義国または社会主義国に分担され己の繁栄を得るべくして東西で競い合った出来事』とすれば、より濃厚な情報が得られるに違いない。


そこで『セックス』を『愛液に絡まった性器で心を繋ぎ合わせ快楽の波に身を投じる行為』と表現してみた。

が、よく考えてみればこれじゃあ単語ではなかった。


ので、諦めてやめることにした。



ライズだ。こんにちは。

冒頭から変な脳内麻薬全開でお届けしております。久しぶりの更新なんだね。


久しぶりの更新がこれってなんなのさ。


まぁ、ちょっと勉学に追われすぎててマトモにPCさえ触れなかったのである。

携帯からちょびちょびと手は加えていたんだけど。

まぁなにはともあれ、今月末あたり何かがくるんじゃない? このサイトに。

時間ないからほのめかすだけほのめかしておくけど。


ふふふふ。



ちゅーわけで今日の本題。


浅田次郎さんという作家をご存知だろうか。

いやご存知な方が多すぎそうなので敢えて答えは聞くまい。


つい先日現代文のテキストにその方の文章が載っていた。

『卒業写真』と銘打たれていた。



意味の分からない言い回しになるが、わずか数ページの世界に、世界があった。



それは、太平洋戦争へ繰り出した『子』の面影を未だに探し続ける『子』の父親(=『祖父』)と、その『孫』のお話であった。


『子』の出征の際、名写真家であった祖父が唯一シャッターを押せなかった。


枯れ葉の舞うその地で、彼は悔しさに涙しそうになりながら子を見送った。


『子』には写真家を継がせようと思っていた。

だが本人の意向で大学へ進学させた。その結果の赤紙(徴兵召集令状)だった。

『子』はその戦争で散った。


『子』の名前は“真次”だった。

真次の真は、写真の真だった。彼はもっとも愛する息子に、もっとも愛する名前を与えたのだった。



その『子』の死後の話になる。


祖父には婿養子が居た。『孫』の父親に当たる男である。


祖父は婿養子に厳しく当たった。彼は祖父から写真家を継ごうとしていたのだった。

そのおかげで周囲からは「あの二人は険悪な関係だ」と思われ続けていた。


そんな周囲の評価をいっぺんに吹き飛ばしたのが、婿のデビュー作品であった。


『老師』と題打たれたそれは、枯れ葉を掻き続ける祖父の姿を捉えたものだった。


タイトルは『老父』ではなかった。

『老師』。

そこには険悪な親子の影はなかった。

親と子、師と弟があるのみだった。


その写真は見事に賞を勝ち取った。

それは同時に、祖父の渾名であった『伊能夢影』の名を、婿が二代目として襲名した瞬間だった。


だが、婿には『子』になることはできない。『子』に変わる事はできない。



『子』が徴兵された時のことを、かつて徴兵された広場を婿の息子である『孫』と歩きながら祖父は思い出す。


枯れ葉を踏みしめる音とともに。

「ちくしょう、ちくしょう」

祖父は、『子』と『孫』を重ね合わせて呟いた。


銀杏の枯れ葉に彩られ、30年前の出征の日へと心が若返りかけながら、祖父は『孫』へと語り続けた。


そして祖父は、何かを探し始めるように枯れ葉を掻き始めるのだった。


まるでそこに置き忘れた一枚の写真を、探し続けているかのように。



『孫』を重ね合わせたのも、枯れ葉を掻いているのも、祖父の痴呆症が始まっていることを暗喩していた。

一心不乱に枯れ葉を掻き集める祖父の姿。

それはいつだったか婿の撮影した『老師』の光景だった。


婿は、何を思ってシャッターを押したのだろう。

かつて祖父がシャッターを押せなかったその地で。


自分は『子』にはなれない。死んでしまった者の代わりにはなれない。


だからこそ、彼は並々ならぬ悲しみと、虚しさと、覚悟を持ってシャッターを切った。

そしてその瞬間、婿は『二代目伊能夢影』になったのだろう―――。




これだけ濃密な人間関係、濃密な世界観、それがたったの数ページに広がっていた。

ありえない。どう足掻いてもこんな才気に追いつけるわけがない。


なにが作家志望か。なにが小説家志望か。自分が恥ずかしかった。

ただ恥じていてもしょうがないので前へ進む努力はするが。それでもこれには勝てない。たぶん一生を費やしても。



あんまりにも自分の非力さが悔しくなったので、浅田次郎さんのデビュー作『地下鉄に乗って』をその日のうちに購入してやった。


そうするとこの作者ったら、時間がない浪人生に1日で本を読み終えさせやがった。

なんというストーリー性。なんという筆力。


どれぐらいヤベェかというと、読んでいる最中なのに読書行為にあらざる身体現象が起こったのだった。


まだ中盤なのに心臓の音が聞こえた。

終盤にいたっては失禁しそうになった。いや、事実いくらか漏れていたに違いない。



俺はさっき『読書行為にあらざる現象』と言った。

だがよく考えれば、これこそが書物が人に与える支配性、俺が日頃からくっ喋っている『言語の無限性』の体現ではないのか。



…………もう泣きたい。


とりあえず本屋のこの人の作品、悔しいから片端から集めたい。

悔しいからそうしているのだ。

決してファンになったわけではないのだ。


勘違いしないでよね。



あぁ、早くお金が手に入らないかなぁ………。